酒井雄哉・大阿闍梨。妻の自殺を乗り越えて~
比叡山の歴史の中で2度も千日回峰行を達成したものは3人しかいません。その中の1人、酒井雄哉・大阿闍梨。
酒井雄哉師は、39才の時に出家し、1度目の千日回峰行を54才の時に達成します。そして、その半年後、2回目の千日回峰行に入り、60才の時に2回目の千日回峰行を満行します。60歳という年齢で満行したのは史上最高齢です。
では、この過酷な修行をやろうと駆り立てたものは何だっだんでしょう?
酒井雄哉師の半生とともに振り返っていきます。
父の会社の倒産。株で大損。妻の自殺。
酒井雄哉師は大正15年に大阪で生まれますが、父の会社が倒産したことによって5才の時に東京引っ越してきます。
その後、麻布中学を受験しますが、失敗し夜間の高校に入学します。そして戦争が始まり、特攻隊に選ばれますが運良く生き延びます。
戦後はカストリ焼酎の密売、ラーメン屋、小間物屋と仕事を転々としますが、店を火事で焼け出され、父が始めた株屋を手伝います。
朝鮮特需もあり、一時は大儲けしますが、1953年にソ連のスターリンが死んで「スターリン大暴落」が起き、1日にして株の値が半値に!
そして借金取りに追われるようになります。
壮絶な青年期ですね。。しかし、もっと辛いことが酒井師を待っています。
32才の時に結婚をするのですが、その2ヶ月後に妻が自殺をしてしまうんです。
酒井師は妻はおれが殺したんだと自分を責め、ついには真剣に自分も死のうと考えるようになります。
それを見かねた叔母さんが比叡山に酒井師を連れて行き、それが酒井師の大きな転機となります。
5年間比叡山に通い続け、そして遂に39才の時に出家します。
年齢的にはすごい遅い出家となりますね。
千日回峰行に挑む
そしていよいよ1973年に千日回峰行に挑むことになります。この時既に47才。この千日回峰行を達成したもののほとんどが30代で行っていたことからも並々ならぬ決意が感じられます。それから7年後の1980年に千日回峰行に満行します。
しかし、1回目の千日回峰行を終えてから半年後、2度目の回峰行を行います。そして60才の時、千日回峰行を満行し最年長記録を樹立します。
この千日回峰行は本当に恐ろしい程、厳しいものです。医者に言わせれば「間違いなく死ぬ」と言われているものですし、途中で千日回峰行を止めることもできません。
やり遂げるか死かの2択なんです。
失敗したら自害!医者に「間違いなく死ぬ」と言われる千日回峰行の全貌が明らかに!
千日回峰行は失敗したら自害!その千日回峰行について詳しく迫る!
酒井雄哉・大阿闍梨の本をここで紹介します。この本は酒井雄哉師の半生と考え方が詳しく載っている本です。
興味があるかたは是非、一度読んでみることをオススメします。
この「一日一生」という本のレビューの一部を紹介します。
酒井雄哉師について色々調べてきましたが、とんでもない方だったんですね。
私も千日回峰行とはいきませんが、何か同じことをずっと続けて極めていきたいと思いました。
追記
大阿闍梨、酒井雄哉が高倉健に送った言葉
先日、11月10日のまたもや昭和の大スターが一人この世から去ってしまいました。
この高倉健さんが亡くなった11月10日は、森繁久彌さんや森光子さんの命日と全く同じというところも何か運命を感じます。
その高倉健さんに酒井雄哉師が贈った言葉があります。
「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」
言葉の意味は、『物事は成就するまでは精進を続け、どんなに苦労しても悔いはない。』
高倉健さんの座右の銘にもなっていたと言います。
とても重みのある言葉ですね。
ご冥福をお祈りいたします。